26日に行われる北京五輪聖火リレーで、出発式会場を辞退した長野市
善光寺には19日朝、その選択を支持する電話が相次いだ。長野市の実行
委員会はコース変更に伴う作業を始めた。同寺の幹部は18日昼過ぎ、記
者会見をして、チベットの人権問題なども理由に出発会場を引き受けられ
ないと表明。寺事務局によると、その直後から電話がかかり始め、同日だ
けで100本ほどにのぼった。「英断だ」「何事もなく済みそうで安心し
た」などと賛意を示す声がほとんどだった。ただ、「なぜ、辞退してしま
ったのか」と問いつめる電話も数本あったという。19日朝も電話は鳴り
続けたが、前日に比べれば少なくなってきているといい、担当者は「一段
落がついた。皆様にはご迷惑をおかけしました」と話していた。長野市
実行委員会では19日朝、全戸配布する予定だったコースや善光寺本堂の
写真を載せたチラシを差し替える作業の確認を始めた。

 

宗派は違えども同じ仏教徒チベットで弾圧されているにも関わらず、善
光寺で聖火リレーの出発式が行われていたら、いったいどのような目で見
られたことであろうか。「英断だ」「何事もなく済みそうで安心した」な
どと賛意を示す声がほとんどであったと言うのも当然ではないか。聖火リ
レーには当然、暴力を伴わない平和的な抗議があるであろうし、他国でも
起きたように妨害行為も起こりうるであろう。地元の商店街では「がっか
り。不安はなかったのでやってほしかった」などと言う声もあるようだが、
善光寺はきちんと筋を通しただけに過ぎないのだ。もはや聖火リレーその
ものが歓迎されるような雰囲気では無く、とりあえず無事に終わらせるた
めに、警備隊がランナーの周囲を厳重に固める姿が予想される。いったい
何のための聖火リレーなのか、善光寺の英断をきっかけに日本人も考える
べきではなかろうか。日頃、人権に喧しいはずの文化人や団体からは、あ
まりチベット問題が聞こえてこないのも、また然りである。